千日紅の咲く町

町のあちらこちらに千日紅が咲いていた。
古い御寺の商店街。杉並妙法寺の門前町だ。
必要最低限の店しかないのだが、それゆえか地元の人で賑わっている。
賑わいは込み入った感じではなく、のんびりして昭和の町を思わせる。
昔の下北沢と少し似ている。

先月、長く住んだ代々木、北沢近辺から離れ、このまちの近くに引越しした。
北沢にいたころ、隣のお婆ちゃんの庭に物干しがあり足元に千日紅が咲き乱れていた。
物干しには江戸風鈴が吊るされていた。
「珍しいよ、踏み切りのあたりに風鈴売りが来たんだよ。」とお婆ちゃんは嬉しそうだった。
そのうち、お婆ちゃんが家族と戦前から住んでいた家を引き払い、近隣に新築の家を建てることになった。
だけどお婆ちゃんは体を悪くして寝たきりになっていた。

雨の日にお見舞いにいった。千日紅は可憐に濡れていた。
庭の植物を持っていきたい、とお婆ちゃんは娘さんに言い出し「物干しのとこにある赤い可愛いのも。たのむよ。」
娘さんは「そう沢山は持っていけないけど出来るだけやるわ、、そろそろ家が出来るわよ、新しいし段差もないし楽になるね。」と答えた。
「たのしみだねぇ」といいながらお婆ちゃんはあまり乗り気のない風だった。

お婆ちゃんは新築の家には行かなかった。
愛した庭が見える部屋で家族に囲まれて旅立った。

お婆ちゃんが旅立った夜、私は上野にいた。
上野の古い奏楽堂で愛の死という曲を聴いていた。
愛の死はワーグナーの楽曲で、愛のたかまりの中での死、永遠の愛、をあらわす音楽だ。
千日紅の花言葉も似たようなもので「変わらぬ愛」だという。

この世を去った人も生き物も、関わった人が生きている限り、記憶として存在する。
死んでしまえば、愛したものは記憶とともに消えてしまう。
私には子どもはいないし、親友の亀もこの世を去り、生きているのはつまらない、と時々思う。
しかし私しか覚えていない愛の記憶が消えてしまうのは、もっとつまらない。
生きる理由は愛の記憶で十分ではないか。
うんと幸せになるとか、謎のやりがいやら、なにかを成し遂げるとか、呼吸法やら武道やら修行してとか、特別ななにか、、あたふたしたあげくこれだが、こういう平凡な答えは常に最良だ。 

妙法寺の鐘の音を体に入れ、帰りに花屋で千日紅の苗を買った。
変わらぬ愛。変わらない気持ち。
たくさんの命から預かった私だけしか知らない記憶。
消えそうで消えない灯火のように、はかなく秋風に揺れている。

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