東京虎ノ門の西久保八幡。知るひとぞ知るお宮です。
徳川秀忠の正室お江様(大河ドラマにもなりました)が夫の武運を祈り、時代を下れば永井荷風の愛妾お歌さんが神社のすぐそばに住んでいました。
昭和に縄文時代の貝塚もここで発掘されています。
西久保八幡の男坂。
江戸時代には門前町があるほど栄えたそうで、長きにわたってこの地に鎮座してきました。
残念ながら去年から再開発の手が入り、神社周囲の昔ながらの土地は白い塀に囲まれ、壊されています。
先週訪れたときは立替のため西久保八幡の社殿はなく、周囲の木々も切られていました。
中央の白い塀で囲まれたあたりに社殿がありました。右端のプレハブが仮社殿。
神社の裏手は我善坊谷という独特の名前を持っていた谷の町で、坂や細い道の多い場所でした。
我善坊という名前はお江様が亡くなった際、野辺の送りのため途中に”がぜん堂”が置かれたため、とか座禅をするお坊さんがいたから、とか、、「諸説アリ」です。
我善坊谷には江戸時代からの地形が残っていましたが、今回の開発で姿を消してしまいます。
さて荷風は西久保八幡から六本木方向に坂を上りきったところ、偏奇館という名をつけた板塀の洋館に住んでいました。
そのあたりは当時、麻布市兵衛町という町で西洋的な山形ホテルがあり、外国人も集っていたようです。現在の六本木一丁目の裏あたりです。今も昔も西洋風の街だったのですね。
荷風は仕事や食事に山形ホテルをたびたび利用していたそうです。
こちらは女坂。都心とは思えない神さびた雰囲気がすてき。
しんとした雰囲気はこのお宮独特のもので、日本的な静けさ。
西洋的な市兵衛町から下り、まがりくねった細道や風情のある坂を下ると、西久保八幡。
路地や坂道を愛した荷風は開放的な気持ちでお歌さんちへ通ったことでしょう。
まさに本能の赴くままの道。
市兵衛町から西久保八幡への道は荷風のこころの世界をよくあらわしていると思います。
そんな荷風の心の地形がなくなった、と思うと寂しいです。